ヒマワリのスカート

好きなことのスケッチブックです。気の向くままに書いています。よかったら覗いていってね♡

「呆けて他人にシモの世話になるくらいなら死んだ方がマシ」の暴力

(時代錯誤な言葉使いをしていますが、会話のままにしています。)

 

「ポックリと苦しまずに死ぬ」ことは究極の理想です。

自分で死因は選ぶことは殆ど不可能だからです。

 

友だちと3人でバスに乗っていて、老人ホームの前を通りかかりました。
その時に、友だち2人が
「自分は、老人ホームに入りたくない。キレイに死にたいし、ボケてしまったら生きている意味がない。他人にシモの世話になるまで生きていたくない」と話していました。

その時は、疲れていたこともあり会話に入らなかったのですが、
後から色々と考えてしまいました。

 

誰が会話を聞いているか分からないというのに会話を止められなかった後悔。
親や家族の介護をしている人がいるかもしれないし、もしかしたら排泄障害がある人がバスに乗っていたかもしれない。誰かがイヤな気持ちになっているかもしれない。別に若者の言葉なんて誰も気にしないかもしれませんが、私は気になりました。

 

確かに、シモの世話になるのはイヤだと言うこと
もし、私が明日から介護が必要になって、誰かにオシメを換えてもらう必要が出来たら、すぐに受け入れられないと思いました。介護の世界に身を置いていて「介護をして当たり前」の感覚になっていたことを改めて思いました。しかし私が高齢になった頃には、誰かにオムツを替えてもらわなくてもいいような、医療や機器や用具が発達していればいいなと思っています。矛盾している。

 

生存の全肯定とは
たとえば、意識の疎通がわかりにくくても、だれかの役に分かりやすく立たなくても、共感しないように見えても、面倒をみてもらう必要があっても
生きているだけで支えあっていきているということ。
それは、自分がどの立場であっても変わらないということ。

相模原の津久井やまゆり園の事件から1年というニュースをTVで流していて、
コメンテーターの人が
「社会問題を提起するような事件ですね」と人ごとのように言いあっていてゾッとした。

シモの世話になるくらいなら死んだ方がマシ、という考えの先に、
相模原の事件はあると思った。

 

怒って当たり前なのだ。
生きるのに理由はいらない。