蚊とカニカマと蚊柱
「蚊にかまれましたか?」って聞いたら、「そういえば、大阪出身でしたっけ?」と返ってきて驚いた。
蚊にかまれるって全国区の言葉じゃないのね。
小さい頃は、蚊にかまれた跡のことを「カニカマ」と呼んでいた。
カニかまぼこの略じゃないよ。
カニカマを爪で潰して後をつけて、「メロンパン」とふざけるのは全国区のネタかな。
それから、水たまりの近くで小さな蚊の赤ちゃんが群れになっている一群のことを
「蚊柱(かばしら)」と呼んでいたけれど、あんまり友だちに通じなかった。
蚊にまつわるあれこれでした。
君たちが生まれる前から僕はお母さんと付き合ってるから任せとけ
屋久島に父、母、弟、私の4人で出かけてきました。
ガンガン行こうぜの私と弟と、ゆっくり散策したい父母とに分かれて現地では行動していました。
先に出かける父母を見送る際に、父に「お母さんと仲良く過ごしやー」と声をかけると、
「君たちが生まれる前からお母さんと付き合ってるから任せとけ」と返ってきました。
何もいえないよね。
仕事には勇気を使わない
仕事で勇気を使わないことにしました。
気力には限界があるのではないかと気づきました。
何かする度に気力を使っていたら疲れてしまう。
気力を使って発揮する勇気は大切な時にとっておいた方がいいのです。
勇気を無駄遣いしないと決めると、行動力があがります。
今までは、思い悩んでためてためてジャンプ!と行動していたのが、
アッサリ一歩を踏み出すのに変えるイメージです。
した方がいいかな、と思ったことは、サラッと行動に移す。
仕事が楽しくなってきます。
「呆けて他人にシモの世話になるくらいなら死んだ方がマシ」の暴力
(時代錯誤な言葉使いをしていますが、会話のままにしています。)
「ポックリと苦しまずに死ぬ」ことは究極の理想です。
自分で死因は選ぶことは殆ど不可能だからです。
友だちと3人でバスに乗っていて、老人ホームの前を通りかかりました。
その時に、友だち2人が
「自分は、老人ホームに入りたくない。キレイに死にたいし、ボケてしまったら生きている意味がない。他人にシモの世話になるまで生きていたくない」と話していました。
その時は、疲れていたこともあり会話に入らなかったのですが、
後から色々と考えてしまいました。
誰が会話を聞いているか分からないというのに会話を止められなかった後悔。
親や家族の介護をしている人がいるかもしれないし、もしかしたら排泄障害がある人がバスに乗っていたかもしれない。誰かがイヤな気持ちになっているかもしれない。別に若者の言葉なんて誰も気にしないかもしれませんが、私は気になりました。
確かに、シモの世話になるのはイヤだと言うこと
もし、私が明日から介護が必要になって、誰かにオシメを換えてもらう必要が出来たら、すぐに受け入れられないと思いました。介護の世界に身を置いていて「介護をして当たり前」の感覚になっていたことを改めて思いました。しかし私が高齢になった頃には、誰かにオムツを替えてもらわなくてもいいような、医療や機器や用具が発達していればいいなと思っています。矛盾している。
生存の全肯定とは
たとえば、意識の疎通がわかりにくくても、だれかの役に分かりやすく立たなくても、共感しないように見えても、面倒をみてもらう必要があっても
生きているだけで支えあっていきているということ。
それは、自分がどの立場であっても変わらないということ。
相模原の津久井やまゆり園の事件から1年というニュースをTVで流していて、
コメンテーターの人が
「社会問題を提起するような事件ですね」と人ごとのように言いあっていてゾッとした。
シモの世話になるくらいなら死んだ方がマシ、という考えの先に、
相模原の事件はあると思った。
怒って当たり前なのだ。
生きるのに理由はいらない。